中間発表後のこと、さんじょうまる ― 2017年12月21日 16:44

学舎ゼミのみなさん

ブログの更新が遅れています。家庭の事情もあって、動きがとれません。
とりあえず、アンケートの集計結果の公表とそれからの分析が必要と思われます。中間発表後のアンケートも加えて、数字を出す必要がありそうです。また、市外に住む方にも、アンケートをお願いしたらとのアドバイスもありました。
その方向むけて、活動できる方は、協力お願いします。

散策チラシの作成も進めて行けたらと考えていますが、これに必要かと思われる史跡の紹介を観光課作成のパンフレットから
文章のみ抜き出しました。ご覧いただいて、是非入れたい文章等、ありましたら、お知らせ下さい。
パンフレットの作成案は今のところ前回ゼミの時よりマップだけ変えました。pdfでメール添付できれば、そのうち送ります。

以下引用です。
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高天神戦国ロマンの里巡り
勝頼と家康の高天神城争奪合戦の史跡を訪ねて
高天神城。戦国の存亡を掛けた戦いの一つに大きな影響を与え、そして、勝者はいずこに、、、、
尾張(織田)三河(徳川)同盟の勢力拡大が進み、戦国の時代も大きな曲がり角を迎えようとしていた。武田信玄の死後、体制を立て直した武田軍は勝頼を筆頭に、甲府から西に進軍してきた。特に高天神城は徳川の家臣小笠原与八郎に守られ、自然の要塞に囲まれた難攻不落の城であった。
歴史は多くの悲しみをつくる。と同時にそれを乗り越えるたくましさをつくる。土地に生きた人々にはそれは一瞬の一時だったかもしれない。しかし、人々はそれを語り継ぎ、形に残して伝えてきている。
山と緑に囲まれたこの高天神城周辺は、自然とともに人々の歴史に包まれている。四季を通して、散策するには絶好の場所である。


かな井戸
天正2年合戦の中、飲料水乏しくここに深井戸を掘って露命を繋ぎ、また、勝頼率いる武田勢の猛進を仕切りを設けて必死の防戦に努めた。当時城が落ちるとき、鶴が舞い上がったという伝説がある。

石牢址
天正2年落城の時、勝頼に降参しなかったために軍監大河内源三郎正局が閉じ込められた石牢。天正9年再び高天神城が家康の手に落ち救出されるまで、実に8年間をこの石牢で過ごした。家康は源三郎を忠義の範として評した。

切割
山城は斜面を上がりながら攻撃するよりも尾根伝いに攻める方が攻撃しやすく、それに対する攻防が大事である。切割は尾根伝いに来襲する敵兵を防ぐため尾根ごとに掘切って徒歩を困難にし、敵の来襲を防ぐためのもの。

高天神社例大祭
約260年前、東峰にあった神社を西峰に移したことに始まり。年一回(3月最終日曜日)東峰の神社に里帰りされる行事が行われる。天狗の面を被った人、刀・鉄砲を持つ人などの行列や神社の前では稚児たちの舞などが奉納される。

郷土の偉人
・松本亀次郎(1866~1940年)
大正3年東亜高等予備校を開き中国人留学生のために尽力した。教え子には、魯迅、周恩来など中国のリーダーがいる。(松本亀次郎公園には文豪・井上靖 揮毫の碑がある)

・吉岡弥生(1872~1959年)
父と同じ医学の道を目指し日本で27番目の女医になる。女性にも医学の道をと、明治33年東京女医学校(現在東京女子医大)を開く。現在、吉岡弥生記念館が東京女子医大看護学部の敷地に隣接して建てられている。

近くの遺跡
・千人塚
天正9年3月徳川勢の攻撃により高天神城が落城した際に、城とともに華々しく玉砕した武田方約800人を葬った塚。土地の人はこれを千人塚と呼ぶ。小笠橋のたもとにある。

・刀匠兼明の屋敷跡
高天神記銘の刀を造った美濃の刀匠兼明が応永および文明年間に高天神に来て、この地に3代移住した。今その記念碑が下小笠川のほとりに建てられている。

・華厳院
曹洞宗梅月山華厳院。長亨元年3月25日、今川の臣高天神城代浅羽弥九郎幸忠が創立した。浅羽幸忠は明応4年8月24日病死し華厳院に基碑・寄進状がある。浅羽家の菩提寺となっている。明治の元勲土方久元の碑がある。

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散策チラシの案PDF版 ― 2017年12月21日 20:03

散策チラシの案を作成してみました。

このブログには、pdfをそのまま載せることはできないようなので、
私の作成しているホームページの方に

リンク先をとりましたので、そこからご覧下さい。
下がurl先です。
http://www.ne.jp/asahi/yoshikn02/namo/zemi/tirasi3.pdf

電子メールで添付した物と同じ物です。

この案のままではだめだと思います。チラシに載せるべき物を
しぼり、文章も変える必要があると思われます。

次回までに、ゼミ活動が1,2回必要と思われますが
年末年始、どうしたらよいか、ご意見をお願いします。